豊島区立トキワ荘マンガミュージアムで開催中の「トキワ荘と手塚治虫」展。開幕前日の記者会見で藤子不二雄A先生が語られた手塚先生とトキワ荘の思い出全文を公開します。
「トキワ荘と手塚治虫―ジャングル大帝の頃―」展は8月9日(月・祝)まで。予約:http://tokiwasomm.jp
※手塚治虫の「塚」は旧字の塚 ※藤子不二雄Aは○の中にA
こんにちは、藤子不二雄Aです。
僕はこの前、寺田ヒロオ氏の展覧会のスタートもテープカットをやらせていただきました。
僕にとってトキワ荘というのは本当に何ていうか、自分の青春時代なのもそうですけど漫画家の走りとして東京へ出てきた頃から五年間、相棒の藤子・F・不二雄氏と住んでいました(※編注:正確には昭和29年10月~昭和36年10月の七年間)。
とにかく、なにもかにも手塚治虫先生がいなかったら僕は絶対漫画家になってなかったと思うんですね。
僕ら、藤子F氏と二人で富山県の高岡という所にいたんですけど、富山県というのは非常に教育県でありまして、当時漫画なんかもうまったく許されないという所で。
僕は高校は高岡高校という、結構…まあこんなことどうでもいいんですけど(笑)、全国の十番以内に入る進学校だったんですけど。
僕は漫画を描いていて連載も持っていたので模擬試験もほとんど勉強してなかったんです。でも、テストに一回も落ちたことがなくて。だから勉強してたら大変なことになってたかも…! こんなことはどうだっていいんですけど(笑)。
手塚先生の歴史的な作品で『新宝島』という単行本が大阪から出されて、それを僕と藤本氏が見て、本当にもうビックリ仰天したんですね。
当時漫画というのは滑稽というかギャグというかお笑いの漫画が主流でして、それを手塚先生がストーリー漫画という、漫画をドラマにした作品を描いたのが『新宝島』という革命的な本で。
これを本当にね、ページを開くとですね、ピートという少年探偵がオープンカーに乗って走っているシーンから始まるんですね。
当時戦争が終わって二年か三年後に、少年がオープンカーに乗って走るなんて漫画なんかあり得ないですよね。
しかも3ページ台詞がひとつもないんです。全部車が、走ったりこっちから追ったり、あらゆる角度で表現されてる。
僕も藤本氏も映画少年で将来は映画監督になりたかったんですけど、ところが映画を作るっていうのは大変なお金と制作がかかるんですけど、僕らがビックリしたのは先生は紙の上で映画を作られた。あっ、これなら僕らもできる!と思って、それで漫画の方へ走ったんですね。
後で聞きましたら石森章太郎氏は宮城県で、赤塚不二夫氏は新潟で、さいとう・たかを氏は大阪で、当時の漫画少年が全部『新宝島』を見て全部がまんが道へ入ったんですね。
そういう革命的な作品で、そのあと僕らはすっかりもうファンになって先生のところへ。描く漫画も手塚先生のイミテーションみたいなものを描いて今日まできたんですけれども。
日本の漫画は今や世界中の、一種の大きな日本の誇りの文化になってるんですけど、手塚先生がいなかったら絶対今の日本の漫画というのはあり得ないわけですね。
そういう革命的な作品を描かれた大先生と知り合えたことで僕らも漫画家を目指したんですね。
トキワ荘へ僕らが上京したのは高校を出て二年後の昭和29年ですけども、東京へ出てきて最初僕らは両国の下宿にしばらくいたんですけども、椎名町のトキワ荘に先生がいらっしゃってご挨拶に行ってですね。
上京したその日に上野からすぐ、トキワ荘の14号室ですけどそこへご挨拶に行ったんですね。
ところがその時も先生は連載を六本か七本抱えてらっしゃって。
当時の漫画というのは月刊誌で一回が16ページで、人気が出ると別冊付録といって36ページのB6版の別冊になるわけですね。だからおそらく一ヶ月に100ページとか150ページとか物凄い量を描いてました。
当時はアシスタントというのがいなくてですね、編集がライン引いたりベタ塗ったりしてるんですね。僕がご挨拶に行ったときにも編集が付いてやってた。
見るに見かねて「ちょっと手伝いましょうか」と言ったら、先生は「あ、やってくれる?」と仰ったので「喜んで!」と言って。藤本くんはそのまま荷物持って両国へ行って、僕だけ一人残ってなんと四日間手伝ったんですね。
それからは何かあると、先生はさすがに言わないんですが編集から電話がかかってきて「安孫子くんちょっと手伝ってよ」と言われてですね、何回も通ってお手伝いをして。
日本の漫画アシスタント第一号は僕だ、とそれを今でも自慢にしてるんですけども(笑)。まあ、手塚先生以外を手伝ったことは一切ありません。
手塚先生がある時
「そろそろトキワ荘を出ようと思ってる」
と。
四畳半で非常に狭いので編集者も入るとぐちゃぐちゃになるので、並木ハウスという別のアパートへ引っ越すから
「もしよかったら君ら入らないか」
と言われて僕も藤本氏もビックリ仰天して「エエッ」て。
両国も東京ですけども、あの頃は漫画の出版社は音羽(文京区)の講談社が主体でしたから椎名町というのは非常に便利がいいんで、それにアパートへ入れるというのが嬉しくて「じゃあお願いします!」と言ったんですね。
トキワ荘の一ヶ月の家賃は当時三千円だったんですね。まあ三千円は何とかできるんですけど敷金がいるんですね。敷金がなんと三万円するんですね。
三万円っていう現金なんか僕らとても無いんで、お金がないからキャンセルする…というのも恥ずかしいもんで
「いや、ちょっと今の両国の下宿が一年の約束なんで出れないんですよ」
と言ったら先生は、
「もし君らね、敷金のことを心配してるんならそのまま置いとくよ」
と仰ったんですね。
僕も藤本くんももう恥も外聞も捨てて「お願いします!」ってね、そして敷金を三万円そのまま置いていただいて、それで両国からトキワ荘へ入ったのが最初で。
そもそも先生が敷金を置いていかれなかったら僕らは絶対にトキワ荘に入っていなかったので、その後のトキワ荘はまったく変わっていたと思うんですよね。
先生にはそういう意味で、漫画だけでなくて私生活も含めて物凄くお世話になったんですね。
トキワ荘へ入ってから僕らは初めて一人前の漫画家としてやり始めて。
部屋が一階二階で全部で15室ですかね(※編注:トキワ荘は23号室まであった)。僕らが手塚先生の後に入ったのは14号室という所でそのあと隣に藤本くんがまた部屋を借りて、そこへ当時は先生に憧れて地方から漫画少年がいっぱい上京するんですね。
14号室の向いにこの前展覧会をやったテラさんという僕らの兄貴の寺田ヒロオ氏がいて、彼は僕より四つ上ですけども新発田高校(新潟県)の野球チームの四番でエースで、顔がいいし身長は高いしスゴいイイ男でプロ野球からスカウトがかかったくらいで、それを彼はキャンセルして上京して漫画を描いてて。
彼はまったく手塚先生の影響を受けていないんですね、井上一雄さんとか昔の漫画家の影響を受けてる非常に健康的な漫画を描くお兄さんで四つ上なんですけども、このテラさんのおかげで僕らも非常にお世話になったんですね。
この前のテラさん展の時もご挨拶で話しましたけども、トキワ荘には手塚先生がいてテラさんという、この二人の人が僕らを育ててくれたという意味で本当に不思議なアパートで。
部屋が空くたびに僕と藤本氏とテラさんの三人で相談して漫画を見て、テラさんは物凄く漫画に厳しい人で「この漫画はダメだ」とか言って、いい漫画があると呼んで入れていったのが赤塚氏、石森氏…。
つのだじろう氏は新宿の床屋さんの息子なんですけども彼は毎日スクーターに乗って、ダッダッダッ…とこう、トキワ荘へ来るんですね。そしてみんなの部屋を回ってなんかこうエキサイトしてまたダッダッダッ…通勤組と僕らは呼んでいたんですけど(笑)、そんな通勤してくる連中も四、五人いて、新漫画党というグループを作ったんですね。
元をいえば手塚先生がトキワ荘にいて、僕らがそこへ入ったことで広がっていって、もし手塚先生がいなかったらトキワ荘は普通のアパートだったんですけども先生がいらっしゃったおかげで僕らも入れて、今やもう伝説のアパートになってこんな立派な復元をされるなんて本当に夢のような気がいたします。
漫画っていうのは僕らの時代は悪書追放運動とか色々あって漫画は今のように推奨されるものじゃなくて、反社会的だと非常に軽蔑されたというか。手塚先生なんか本当に素敵な漫画を描いてるのに悪書追放運動でターゲットになって大変なご苦労をされたと思うんですけども。
そういう中にいられたのは結局なんというか…漫画家を目指す少年というのは大体独りでネクラなキャラクター、僕も途中から変わったんですけどネクラな少年だった(笑)。
独りでやってるものですから結局付き合う範囲も、高校出てから会社入ったりする人がいなくていきなり漫画家を目指していきますから、みんな物凄く個性があってクセがあって自分が一番と思っているような。
そういう青年がトキワ荘に集まってきたのは、おそらく手塚先生の影響がありますしまたテラさんというお兄ちゃんがいたことで、本当にあらゆる運命が変わったんでそういう意味では本当にトキワ荘というのは、僕らの人生を全部決めたアパートだと思うんですね。
さっきもこの展覧会を内覧したんですけども、そこに先生が描かれた代表作の『ジャングル大帝』という漫画があるんですけど。
『漫画少年』という雑誌に連載したんですけどその最終回の時にですね、先生から手伝ってくれと言われてトキワ荘へ行って、編集もいなくて二人で。
最終回でジャングル大帝がヒゲオヤジたちと雪山の嵐に囲まれて一人ずつ倒れていくという非常にパセティックなラストシーンだったですね。先生に「吹雪を描いてくれ」と言われたんですね。
それで先生がこっちのテーブルでやられて、僕はここに机を置いて手伝ってた。先生は当時描かれる時に音楽をかけられる。当時ステレオってのが初めてできて、そこにチャイコフスキーの悲愴交響曲をかけるんですね。先生はここにいて、僕はここにいて吹雪を描く。隊員が一人ずつ倒れていく…吹雪の中で。僕は嵐を、展示でご覧になれば分かりますけどその吹雪を描いて。
悲愴交響曲の中で描いてると僕は嘘の漫画を描いてるのに涙が出てきてたまらなくなったという、凄いイメージが残ってます。
その後も先生はお忙しくなって、専属のアシスタントがいなかったので僕がお手伝いして、いろいろアシスタントにたくさん出たんですけども。
先生は締め切りに合わせるため手伝いを入れたものでも単行本にする時には必ず直されるんですねご自分で。ところが『ジャングル大帝』の僕の嵐だけは未だに一切直されてない、ってことは非常に先生に認められたということで僕はこれを非常に自慢にしてて。あとで展示をご覧になれば分かりますけど一ページ丸ごと吹雪ってあれは全部僕が描いたんで先生は一つも描いてない、そういうこと言うと先生に怒られるかも知れないけど(笑)、これを僕は事あるごとに自慢にしてきたんです。
本当にね、そういう意味でトキワ荘と手塚先生には本当にお世話になりまして。
今度の展覧会は日本中、先ほど区長も仰いましたけども世界中から来ていただいてこれを大いにPRしていただけるとありがたいと思います。どうもありがとうございました!
*質問タイム*
Q.
『まんが道』には石森章太郎さんやそのお姉さんも出てきますが、当時の皆さんとの思い出話を聞かせていただけませんでしょうか。
A.
これを言いだすと何日かかるか(笑)。簡単に言いますけども。
テラさんがいて、僕らが入って、それからまた一年二年で石森氏とか赤塚氏とか来たんですけども。
当時『漫画少年』という雑誌があって、『漫画少年』へ投稿すると県別で名前が印刷されて出るんですね。当選すると作品が載ったりするんで、僕らは会ったこともないんですけども宮城の石森、あの頃は小野寺章太郎。
彼は天才的な、手塚先生の一番の…。絵もいいしセンスもいいし物凄い絵を描いていて、「この小野寺章太郎というのは凄いな」と僕も藤本くんもいつも噂にしてたんですね。
それから新潟では赤塚不二夫、彼はギャグの漫画で描いててこの彼もよく当選してたんで。
それがトキワ荘へ僕らが入って一、二年後に二人同じ時に入って毎日一緒に住むようになったんですけども。
石森氏というのは描いてる漫画は本当に洗練された漫画なんですけど、会ってビックリしたのは漫画のイメージとまったく違うんですね。
こう言っちゃなんですけどちょっとズングリムックリして、こんな人があんな凄いのを描くのかというくらい(笑)。一番歳が若くて高校卒業したばかりの18歳ですけど、物凄く貫禄があるというか只者じゃないという雰囲気はありましたね。
それから赤塚氏は当時は本当に美少年で、晩年の赤塚とはまったく違う(笑)。お酒も一滴も飲めないし、一言も会合でもほとんど喋らなかったのがあんな180度、タモリ氏と一緒になって…って余計なことですけど(笑)、全然人が変わって別人の赤塚になったんですけど。
つのだ氏はさっきも言いましたように新宿から通いで。彼は物凄くキャラクターが真面目で、僕らは新漫画党で会合を開くんですけどここでは漫画の話を一切したことがないんですよ。みんな映画の話がほとんど中心で。
そうするとある時つのだ氏から、彼は書が上手くて巻紙で質問状がきたんですね。
「新漫画党に期待して入ったのに漫画の話を一切しない、堕落している!」
というのでビックリ仰天して。
藤本氏はそういう時上手いので
「漫画を描くのは自分で考えるもので漫画の話をしちゃダメだ、映画とかの話をするのが漫画家としてのプラスになるんだよ」
というのを聞いてからコロッと変わって、まあ何の関係もないですけどお酒も飲まなかったのが飲むようになったし行動範囲も変わったという非常にユニークな人で。
それから鈴木伸一さんという彼は下関から漫画で入ってきたんですけど彼は漫画というよりディズニーのファンで、アニメーションを志したので横山隆一先生がおとぎプロというアニメ会社を鎌倉で作られてそっちの方へ行っちゃって、今やアニメの業界では大変なレジェンドとなってますけど。
そういうふうに一人一人が本当に個性的な集まりで、特にご質問されました石森氏は非常に天才的でしたね。
(石森氏のお姉さんについてお話お願いできますか)
トキワ荘ってあまり色気がないというか…当然ですけど、僕らは漫画だけですから女性関係で付き合いとかまったくない時代に。
トキワ荘には共同の炊事場があるんですね。真ん中に水道があって周りにコンロがあって、そこでみんな料理を作ったりする。
藤本くんが台所行って戻ってきて「おい、お前台所に行け」と言うんですね。「何で?」「とにかく行ってみろ」というので台所に行ったらお下げの少女、というか素敵な女の子がお湯を沸かしていたんですね、顔は見えないんですよ。
すごい感じのいい綺麗な子がいるね、どこの人だろうと言ってたらトントンとノックして石森氏がきて、
「お姉さんが来たから紹介するよ」
と言ったらそのお姉さんで。言っちゃ悪いけど石森氏とは似ても似つかない(笑)、本当に綺麗な当時18か19の、石森氏の一つか二つ上で、ただ体が喘息で弱くて。
僕はわりと文学青年だったのでいろんな本を持ってたので、お姉さんが時々来て本を借りにくるんですね。本を貸すと必ずお姉さんは
「あの、石森はどうでしょう?漫画家として」
と訊かれたから
「いやあ彼の才能は凄いしね、僕らがダメになっても石森だけは成功するよ」
と言ったらホッとしてね、本当に弟思いの人で。喘息で一年後に亡くなられてね。石森は本当にがっくりして、仕事ほとんど辞めた時期があったんですけどね。
Q.
手塚先生が漫画を描かれている時や普段の雰囲気について教えていただけますでしょうか。
A.
手塚先生は非常に愛想のいい方で、普通の時はもう本当にこっちが恐縮するくらいなんですけど、漫画を描いてる時は周りに近寄りがたいという雰囲気があって。
必ず同時進行で何本も、何本もやってますから、トキワ荘やいろんな旅館でお手伝いしたんですけど先生が僕より先に休まれたことがないんですよね。
僕は途中から入るんですけど。その間連載を何本も同時進行でやってるんで、付いてる編集も各社手練れのみんなでっかい編集ばかりで、腕力の強そうなのでないと押し退けられてとても自分の順番がまわってこないという。一本を描くんじゃなくて同時に三、四本を同時進行するんですね。
僕らは資料とかシナリオとかを順番でやるけど、手塚先生は僕が行った時には当然もう原稿に入ってますから机に向かって描いてる時しか知らないんですね。
僕も手伝うとほとんど睡眠時間もないんですけど「安孫子氏、先にちょっと寝たら」と言われて僕は寝る。それも朝の三時か四時ごろ寝るんですけど先生はその時もまだ描いてて、僕がちょっと寝過ぎちゃったなあって七時に起きるともう先生は机に向かってる。先生が横になって寝た姿を見たことがないんで僕は本当に「鉄人治虫だ」って藤本氏とよく言ってましたけどもね。
Q.
『ジャングル大帝』の手伝いを仕上げられて、手塚先生からのコメントは当時あったのでしょうか。
A.
いや、もうコメントも何もとにかく仕事に入ると会話をする時間はないですね。担当の編集がいますから、一つが終わると次が入るんで仕事場でそういう談話とか喋ったり、極端な話食事もほとんどちゃんと食べたことがないという。
だから先生は若くして亡くなられたけどおそらく実際の生きた実年齢はもう百五十ぐらいじゃないかと思うんですよね。なんせ普通の人じゃなかったですね。