2019/03/29

【追悼・初代怪物くんの声:白石冬美さん】インタビュー:怪物くんは私の宝もの

ネオ・ユートピア編集部です。

初代怪物くんの声、白石冬美さんが亡くなられました。
藤子不二雄ファンにとっては、怪物くんの声でした。
以前、怪物くん特集号を編集した際、怪物くんの特集をするなら、ぜひ白石さんのお話を聞きたい!とアタックして実現したインタビューを公開して追悼とさせていただきます。

「怪物くんは私の宝もの」



ーやんちゃだけどかわいくて気品のある王子様をやらせたら右にでるものがいない、元祖『怪物くん』の声を演じられた白石冬美さんに当時の思い出を語っていただきました。

怪物くんとの出会い

ー怪物くんに決まるまで
●中学を出てから、ずっと声や舞台の仕事を目指していました。アニメの声の仕事はチェコのアニメなどから少しずつやりだしていて、テレビアニメは、『ビッグX』('64)のニーナが初めてでした。『W3』('65)は、最初は2クール目から出演という話だったのですが、当初決まっていた方に赤ちゃんができて、たなぼた式でボッコちゃんの役が回ってきました。
  『怪物くん』('68)は初めての主役で、また本当に楽しく演じることができました。オーディションは、最後の方に一人で受けた覚えがあります。同じ年に、『巨人の星』('68)の明子役も決まり、私の中ですごく大きな深夜放送の「パックインミュージック」('67〜'82)の仕事もそのころ決まり、それ以降レギュラーの仕事が途切れたことはありません。それまでは親戚の家の三畳間に間借りしていて、それでやっと引っ越しできて、それまでのもやもやした生活から、はっきりそれ以降の人生の道が見えた、『ハリー・ポッター』で言えば、ポグワーツ行きの魔法列車の切符のような役でした。
  『怪物くん』が始まった'68年の大晦日も思い出深いです。その日は、TBSラジオで夜通しの外回りで、野沢那智さんと私でまず横浜で汽笛を聞きながら中継をして、明治神宮に移動してスタジオからの呼びかけを待っていたんです。ザクザクと玉砂利を踏む参拝客の足音がとても印象に残っています。そうしたら、スタジオから「チャコちゃーん(白石さんの愛称)、チャコちゃんの「おれは怪物くんだ」にリクエストがいっぱいきていますよー」って言われたんです。そんなこと、夢に思っていなかったので、本当にびっくりしました。それと同時に怪物くんの主題歌がラジオから聞こえてきて、それまで自分の歌がそういったところでかかることがなかったので、涙は出なかったのですが、涙より上みたいな感情がこみ上げてきて、しばし呆然と立ちつくしていました。そのときはものすごく感激しました。

ー役づくりについてお聞かせください。
●小さい頃から『紅孔雀』や中村錦之助さんなどの時代劇が好きで、特に子供が家来を連れてきて命令して、大人がひれ伏すというシチュエーションが憧れだったんです。ですので怪物くんは、本当に嬉々としてやりました。後にやった『一休さん』のやんちゃ姫と怪物くんは私の本当に好きな役です。
  子供の役というのも、当時洋画でやっていましたし、特に苦労はしませんでした。あまり男の子の声も作っていません。
  この前、演劇を観てきたのですが、子役さんがセリフはなくてお母さんにすがるとか決められた動作だけの自然体そのままで、がんばって演じようとしていないんです。当時の私もまだやわらかくて、たぶんそんな感じだったと思います。今はいろいろ引き出しができて、オーディションに行くと、どれにしようかしらって迷うから(笑)。当時その一つしかないものをスタッフの方が買ってくださった。それが良かったと思うんです。

ー安孫子先生からのご注文はありましたか?
●もしかしたら録音監督にはあったのかもしれないのですが、私にはまったくなにも注文はありませんでした。

ー『怪物くん』の原作は、役が決まってから初めて読まれたのですか?
●そうです。活字は好きなのですけど、漫画はあまり読まないんです。オーディションを受けて、『パタリロ!』が決まったときには、東映動画のプロデューサーの旗野義文さんが原作漫画の単行本を全巻買ってくださり、読みなさいって渡されました。そんなときは読みます。でも、『怪物くん』はいまでも見かけると原作の本を懐かしくて見ます。

ー当時スタジオ・ゼロ側で演出や作画を担当された鈴木伸一さんによると、『怪物くん』のパイロットフィルムはカラーで作られたのですが、スポンサーの不二家がお金がかかるからと嫌がって、白黒作品になったそうです。もしカラーで作っていたらもっとリピートで放送されていたのに…と鈴木さんは残念がっていたのですが、白石さんはパイロットの声はあてられたのでしょうか。
●それは知りませんでした。オーディションもいろいろな方がやったあとの最後の方でしたし、私は声を当てていないと思います。

ー主題歌についてお聞かせください。
●いよいよ決まってまず主題歌の録音ということになったのですが、私だけ残されて何テイクも録ったんです。私は声帯が強いので何テイク録っても全然平気で、声はいつまでも出るんです。レコーディングは何テイクも録る、そういうものだと思っていたのです。ところが、ちょっと調整室を見るとスタッフの方が疲れたような感じで、そのときは不思議に思っていました(笑)。
  おかげ様で『怪物くん』のレコードはヒットして、『怪物くん』とは関係ない『子供盆踊り』『マジックシューズ』などお話がきて、録音スタジオに行ったんです。そうしたら、なぜかお弁当やお菓子などがしっかり用意してあって、チャコちゃんは長くかかるそうだから、ゆっくり録りましょうね、『怪物くん』のときはよく泣かなかったねって言われて、そのときやっと理解しました。『おれは怪物くんだ』は朝までかかりましたが、普通は2時間くらいで終わるんだそうです。ちなみに『マジックシューズ』のときは2時間くらいで終わりました(笑)。
  その後、ある日静岡の実家に帰ったら、家の外を子供たちが「オ・レ・は怪物くんだ!」って歌っていて。あ、ヒットしたんだなって実感しました。
  TBSで日音の方がすれ違うとニコニコしてくださって、今年のボーナスは怪物くんのおかげですって言われたりました。私は全然関係なかったんですよ(笑)。印税というのにしなかったからいけないのねって、大笑いしました。その後、野沢那智さんとレコードを出すことになって、印税っていうのにしないと駄目なのよって印税にしたけれど全然売れませんでした(笑)。アニメーションの力って大きいんですね。
  ソノシートの「怪物くんクリスマス」は、ヒロシ役の松島みのりさんと歌って楽しかったです。

ー藤子先生はどんな印象でしたか。
●現場もなごやかで、藤子先生とも仲良くさせていただきました。
  パーティーでもなんでもお二人でいらっしゃるのですが、お残りになってずっとおつき合いくださるのは安孫子先生でした(笑)。あまり出ていらっしゃらないのでなかなかお会いできなかったですが藤本先生もお会いすれば優しかったです(笑)。
  怪物くんは本当に人気で、イベントもありました。安孫子先生と一緒に行った『怪物くん』の絵を描いたり、ショーをしたりした九州の宮崎が、そこは青い空が抜けるように綺麗で、そうしたら、安孫子先生はゴルフしたら気持ちいいだろうなあって(笑)。とても楽しかったです。

ー不二家のお菓子が食べ放題だったりしたのでしょうか?
●それはなかったです(笑)。当時の不二家の宣伝部の責任者の方はすごく豪快で楽しい方でした。お酒が大好きでパーティーの後など興がのると、みんな自宅まで連れてゆかれて、朝まで帰してくれないのです。楽しいのですけどご家族も大変(笑)。あるときお玄関までいったところで、安孫子先生がいきなり「にげろ〜」って号令したので、くもの子ちらしたみたいに走って逃げたことがあって、のちのちまで、笑い話になりました。

ーアフレコの現場はいかがでしたか。
●『怪物くん』の当時は、モニターではなく大きなスクリーンがありました。逆に『釣りキチ三平』('80)が線録りでした。三平役の野沢雅子さんが青い線、ユリッペ役の私が赤い線、魚紳さん役の野沢那智さんが黒い線。野沢那智さんは、チャコとマコ(野沢雅子さん)の演っていることを見ると目が回るって言ってました(笑)。ユリッペの役も好きでしたね。
  最近は、一人だけ抜き録りということもできるので、みんな揃って用意ドンで録ることもあまりないんです。こないだ『Zガンダム』の映画でミライさんが出て、珍しくずらっと揃ってやってワクワクでした。

ー監督からの指示はどうでしたか?
●ガンダムの富野監督の場合は、どんどんと録音室に入ってこられての指示がありましたが、普通私たちが直接お話するのは録音監督で、その後ろに監督さんがいらっしゃるんです。『怪物くん』でも直接お話するのは録音監督でした。山崎あきらさんです。とても演技指導がお上手で、多くの人たちがその薫陶を受けた方です。どの役の科白もお手本をやってくださると、誰よりもお上手で野沢雅子さんなんか「ぜんぶ山崎さんがやったほうが良いかも〜」なんて言ったりするくらい(笑)。私は『怪物くん』『巨人の星』と山崎さんに育てていただきました。『巨人の星』のときなどは、これぞという人の側にピタっと座り細かく演出されます。中学生だった飛雄馬の古谷徹さんによりそって、噛んでふくめるようだった姿を思いだします。私にも明子の心理から教えてくださって、頭でわかっても未熟で自分という楽器がうまく鳴らなくて、あるとき「すみません。口うつしでお願いします」って言ちゃって、みんなに爆笑されました(笑)。それからスタジオでは「口うつしでお願いします」が流行ったんですよ(笑)。『ろぼっ子ビートン』も山崎さんでした。
 『パタリロ!』の録音監督は別の方だったと思うのですけど、最初の3本くらいまではつかめなくてすごい迷っていたら、日曜日に電話がかかってきて、渋谷の喫茶店で話したら、ぱっと掴めたんです。何をどうという訳ではないんだけど、話したらひょいと掴めました。私たちは、本当に録音監督の方のお世話になっています。

ー『怪物くん』でマスコミに取り上げられたりはしましたか?
●どこの新聞かは忘れてしまったのですが、まだ自宅の近くの銭湯に行っていて、それを知った新聞社の方が写真に撮らせてくれって、道を横切ってお風呂屋に行くところを「怪物くん銭湯へ行く」って、写真に撮られたりというのがありました。

ー『怪物くん』宛のファンレターは来ましたか。
●来ました。でもラジオでやっていた「パックインミュージック」の方がだんぜん多かったですね。「パックインミュージック」の3年目くらいから深夜放送ブームがくるんです。
  アニメの声優がもてはやされる第二次声優ブームは、もっとあとの『宇宙戦艦ヤマト』のころ始まっったんです。当時、青二プロにいたのですが、年明けに出社した人が、ドアが開けられないほど年賀状が積んであって声優の世界に何かおきてるなと感じたそうです。
 
怪物くん交替について

ーテレビ朝日版について
●『怪物くん』('80)が新しく始まるって聞いたとき、局が変わるからとは聞いていたのですが、演れる演れないに関わらずとてもやりたかったです。そして藤子先生にお手紙を書きました。どうしてもやらせてくださいということではなくて、書かずにはいられなかったんです。藤子先生は、あとでお会いしたとき、僕たちも努力したんだよっておっしゃってくださいました。
  マコさん(野沢雅子さん)の素敵なところは、新しい『怪物くん』の声に決まったとたん、声の仕事では先輩なのに私を訪ねてきてくださって、「チャコちゃん、マコがやることになったの。私もがんばってやるから。ちゃんと挨拶しようと思って」っておっしゃってくださったんです。野沢さんは本当に素敵な方です。
  できないとわかる前後はとても辛かったけど、でも新しい『怪物くん』がやれないんだということが決まってしまうともうなにも辛くなかったです。なんでも前の段階、期待したり心配したりしているときが辛い。恋愛なんかもそうですよね。失うんじゃないかなと思っているときが一番辛い。現実が来てしまえば、なんでも受け止められる。
 『ろぼっ子ビートン』('76)は、「新」ってついて逆に私が2クール目から突然入ったんです。前の方はかわいい声の方だったんですが、かわいい声すぎたみたいです。今回『ドラえもん』が最初5人だけ変わるって噂が流れたときは、すごく心が痛みました。シリーズが続いているのに自分だけができないというのはつらいです。残る方もね。でもこの世界、そういうことも起こりえるです。ですので、『ドラえもん』全体一新と聞いたときはホッとしました。
   私は小さい頃から『赤毛のアン』の大ファンで、アンの声がやりたくて声優をめざしたと言っていいくらい、「いつかアンを、赤毛のアンを」と心の中で念じていたのです。ところが、いざ『赤毛のアン』が始まると聞いたときはオーディションにも呼ばれないんです。それが夢だったのだから私、せめて受けさせてくださいと、オーディションを受けました。でも駄目でしたね。アンは、山田栄子さんに決まって、彼女は『赤毛のアン』で声優デビューをしたんです。もう姿かたちまでアンに、ぴったりでした。だから熱望しても駄目なものは駄目、本当に作品や役とも、出会いと縁なんですよね。野沢雅子さんも『ゲゲゲの鬼太郎』('85)が新作のときは、鬼太郎は戸田恵子さんになったんです。でももし鬼太郎が決まっていたら、フジテレビは同時に二つの主役はやれないので『ドラゴンボール』の悟空はできなかったと自分の本に書かれていました。『ドラゴンボール』でマコさんは息子の孫悟飯に孫悟天もやって大活躍、大ヒットでしたもん。だから、すべてものごとは佳きことのために起こるという格言は、本当かもしれませんね。
  
ー他の声優陣についてお聞かせください。
●声優のお仕事を始めてこの世界は本当に温かいと思いました。一つの劇団みたいな感じでした。当時の怪物三人衆のうち、もう兼本さんと今西さんは亡くなられてしまったのですが、ベテラン揃いで、一緒に助けてくださってチームワークもよく、楽しくやらせていただきました。
  ドラキュラ役の大竹宏さんは、フジテレビの「ピンポンパン」のカータンや独特の高い声で『パーマン』の時もブービーをやってらして。のちに事務所も一緒になりましたし、主題歌の後に「♪不二家、不二家、ではまた来週」って、一緒にペコちゃんの声の方と歌うというのがあったんです。「怪物くんの歌」って出だしがシンコペーションになっていて、入るのがむずかしい曲なんです。私はジャンジャジャン、うん、オ・レ・は…って入るのがなかなか掴めなくって、それで何回もやって、ペコちゃん役の方が急いでらしたのかな、「ね、どうしたのよッ、どうしてできないの」っておっしゃったんです。そうしたら、大竹さんが「うるさい!」ってピアノをバンと叩いて「新人なんだからそんなこと言ってはだめだよ。そういうことではいいものできないよ」って怒ってかばってくださったことがありました。そのときなんて素敵な先輩なんだろうって思いました。
  オオカミ男役の兼本新吾さんは、野沢雅子さんと三人で一緒に人形劇でもご一緒させていただきました。新劇出身でお芝居がうまい方でした。大人なんだけど、すごい甘えん坊な人でしたね。お魚の骨とれないって〜、いいかげんにしなさいって、しかってあげるくらい仲が良かったです。結構もててたらしくて、いろんなガールフレンドがいて、それをからかったり、からかわれたりしていました。
  フランケン役の今西正男さんは、食べることが好きで、あれが美味しいこれが美味しいといろいろ教えてもらいました。
  ヒロシ役の松島みのりさんと『パーマン』の三輪勝恵さんは、青二プロに私がいたときから、いちばん大好きな人で今も仲良しです。松島さんは『パタリロ!』ではご先祖さまのパタリロでお風呂で裸のとっくみあいを演じて負けませんでした(笑)。野沢雅子さんとはかなりの作品で共演、「パンポロリン」の人形劇では何年かずーっと一緒でした。
  デビューしての頃、NHKのラジオドラマ動物村のお話で、なぜか私が主役のキータン役で、野沢雅子さん、野村道子さん、堀絢子さんたちと、そのときはじめて私はほんまもんの声優さんに会ったのです(笑)。またキータンがよく歌うんです。野沢さんが親切に私の前にたって、うまく歌えるように指でリズムをとってくださったのですが、そのうちにパブロフの犬の条件反射みたいに、野沢さんが同じ場所で拍子をとってくださらないと歌えなくなっちゃって(笑)。そうしたら、私が残って後で歌を録るときも、野沢さんは一緒に残って、ふつうはイヤでしょう、でも野沢さんはちゃんと残って拍子をとって、つきあってくださったんです。そういう方なんです。野沢さんも、もちろん負けん気もお持ちですが、やはり、今日まで残っておられる方たちは、みんな素晴らしいんです。意地悪だったり後輩をいびるような人は、もう残っていませんもの。そういう方はたぶん自分に自信がないのかも(笑)。自分に自信がある方は、そういうことはしないという気がします。



その他の役について

ーその他の役についてお聞かせください。
●『鉄腕アトム』では、4年目('66)のそろそろ終わりかなというころにアトムのお兄ちゃんのコバルトに続いて登場した、アトムの弟で大きな声で泣くチータンという役で出ました。『サイボーグ009』('68)の時も赤ちゃんの001は泣くでしょう。あれも私がやっているんです。本当にアニメの草創期からやらせていただいていています。
  それ以外には赤塚不二夫先生の『おそ松くん』('66)のトト子ちゃんやカラ松とか、『魔法使いサリー』('66)『花のピュンピュン丸』('67)とかいろいろ出させていただきました。

ー『W3』('65)について
●「W3」は、この間、居間にテレビをつけっぱなしで台所にいたら、世にもかわいい声が聞こえてきて「かっわゆい〜だれだ〜?新しい人かな?」包丁もったまま見にいったら「W3」の最終回でボッコちゃんが人間の姿に戻る最後のシーン(笑)。透明感のある不思議な声で、声は変わらないねとよく言われるけど、もうあんな声はどうでしょうね(笑)?アトムの誕生日を迎えてのパーティで大勢でごったがえす広い会場の人波みをわけて、向こうから突然「テープを聴いて、手塚先生にボッコちゃん役はこの子ですって言ったのは僕ですよ」とおっしゃった方がいらして、びっくりしました。知らない方のお世話にもなってきたのだなと。
  手塚先生に最後にお会いしたのは舞台の袖で今度何周年のパーティをやるので、そのときはお願いしますって言われたときでした。それがお会いした最後でした。

ー『巨人の星』('68)について
●明子さんは、四苦八苦でした。最初飛雄馬のそばにいる友達という役で受けたのに、ちょっと明子を読んでごらんって言われて。大人の役なんてできませんって言ったのに、明子は中学生だよって言われました(笑)。そしたら決まってしまったんです。
  『巨人の星』も後半になると、明子は出番がだんだん少なくなって、「飛雄馬」ってものかげで大きな涙を出しているか「飛雄馬がんばって」と言うだけ、梶原一騎先生がなにかのときに「チャコさ、やっぱり女は嫁にゆくなら、伴宙太か左門豊作みたいな、ああいう男のとこにゆくのが幸せになるんだ」とおっしゃったから「絶対に嫌です」(笑)って言っていたのですが、そしたらなんと『新巨人の星』では花形さんの奥さんになっていて、水色の着物にアップの髪型で、やはり「あなた」って言うだけなんです。
ー『パタリロ!』('82)について
●『パタリロ!』のときは、最初「いっぱいオーディションしてるんだけど、ぴったりの人がいないんだよ」って社長が言っていたのですが、そのときは怪物くんはかわいいから、やりたいなって思ったんですけど。ちらっとパタリロの絵を見たら変な男の子だったので(笑)ぜんぜんやろうなんて思えなかった。でも、だいぶたってから、また「本当にいなくてちょっと受けてみてくれない?」って言われてオーディションを受けました。もう一人、声優とは違う世界の人がいらしていたと思います。ところがスタジオに入って、パタリロが画面にぴゃっと出てきたら、当時はもう緊張して手が震えるということなんてないはずなのに、手に持っている台本が震えたんです。もしかして、私、潜在意識でこれやりたいのかしらって思って、気を入れ直してやりました。あのとき、パタリロが降りてきたのかもってよく冗談で言うんです。キャラクターとの出会いってそういう運命的なものがありますよね。
  原作者の魔夜峰夫さんが『パタリロ!』の録音スタジオに、お見えになったときはみんな目をみはりました。細身の体にぴったりな黒いスーツの襟には赤いバラが一輪、オールバックの髪型に、黒いサングラス、バンコランみたいで「えっ、うそ、わあ〜パタリロの世界から抜け出してきたみたいな感じ」で、担当編集者とぴったり寄り添って、とてもファンタスティックでした。後にパックのスタジオにも遊びにきてくださったり、劇団「鳥獣戯画」のお芝居を観にいったり、楽しかったです。声優になって良かったのは、後世に残る偉大な原作者たちそれぞれのお人柄に触れることができることです。魔夜先生がバレリーナと結婚されたと聞いたときは「ぴったりです」と思いました。



ーこうしてみると王子様の役が多いですね。
●強いて言わせていただければ、これジョークですよ(笑)。声に品があるって言われます(笑)。わりと、やんちゃな役が得意で多くて、明子さんやミライさんが例外なんです。ミライさんは年齢も近かったので割と自然体でできたかな。

ー深夜放送について
●深夜放送の「パックインミュージック」('67〜'82)という番組は、私の中ではすごく大きな存在で、この番組で白石冬美=チャコを知ってくださった方も多かったんです。私と野沢那智さんは、全部リスナーのみなさんからいろいろなことを教わりました。『怪物くん』が始まったら、怪物くんのハガキが来て、ガンダムが始まったら、ガンダムの絵が来て。私の中で常に声優のお仕事と両輪のようにして存在してきました。

ー漫画家の先生たち
●私も幸せなことにいろんな方におめもじしてきましたが、魂の素敵な方が多いのは、絵描きさんと、人形劇のお人形を使う人たちと思っています。漫画家の先生たちはもちろん、イラストレーター、とにかく絵描きさんはほんとチャーミングです。人形劇の使い手は作る人形も素晴らしいけど、私たちの声に合わせて中腰で手だけを高くあげて人形を操る技術も素晴らしい、そして普段の彼、彼女たちも、優しくてユーモアがあってステキなんです。声優仲間もそうです。たぶん自分が表にでないで隠れてやる仕事だからかもしれません。どこか奥ゆかしいというか(笑)。
  石ノ森先生が亡くなったときは、ショックでした。私は石ノ森先生からスラリとした長い足、三角帽子にムチを持った美しい魔女の絵をいただいたことがあるのです。それは何故かというと、新宿の今のサンモール劇場のならびに、ピアニストの友達の「ウィッチ・クラフト」というお店があって、ピアノの仕事が忙しくなり、売り上げから10万円だけくれれば「冷蔵庫のものも、お酒も居抜きで使って良いからやらない?」という話がきて、お店なんてちょっとやってみたいじゃないですか(笑)、「魔女の仕業」に看板だけ変えて引き受けたんです。はじめは毎日がパーティー、安孫子先生もいらしてくださって、可愛い小さなポチ袋に御祝儀をくださり、嬉しかったです。石ノ森先生は魔女の絵を持ってきてくださって「バックもぜんぶ僕が塗ったんだよ」って。私はアシスタントの存在をまだ知らなくて、仕上げまで全部してくださる有り難みがそのときはわからなかったんです(笑)。石ノ森先生が「レミマルタンを」とおっしゃってくださったのに「それ、なんですか」と答えて(本当に知らなかったの)、先生に大笑いされました。
  やがて、お店なんていうものは、明日のパンと水がかかっていないと勤まらないのだとわかりました。時間も朝まで取られる、約束のものを友人に払い、アルバイトさんに払うと「あらら、時間を返して」という感じで、中二階にピアノや小さなステージのあるスペイン風の洒落た店だったけど、3ヶ月で降りちゃったんです。次に行ったらもうないなんて言われて、こんどやる時はカウンターだけの店にして「疲れた妖精たちの吹きだまり」って名前にすると言ったら「魔女の仕業」に行こうというだけでも恥ずかしかったのにお願いだから止めてくれって。安孫子先生も来てくださってありがとうございました。短かったけれどちゃんと泥棒も入ったんですよ(笑)。
 
  いつも私の最初のタイトルロールは『怪物くん』ですと話したり書いたりするとき、とても誇らしいのです。『怪物くん』は私の宝ものであり、勲章です。

ー貴重なお話ありがとうございました。

'05・11・5
取材:加藤、稲見、蝶野(執筆・レイアウト)



ネオ・ユートピア 41号掲載